
外国人が身近になった日常の気づき
夜、ふらっと立ち寄ったコンビニで、ネパール人の留学生がレジをしている。
笑顔で「ありがとうございました」と言ってくれるその声に、最近の私は救われることがある。
数年前は、同じレジにいたのはベトナム出身の「グエンくん」。
(ベトナムではとても多い名字で、いまでも仕事先でよく聞く名前)
仕事で関わる企業にも、中国出身の方が普通にいて、話しやすい相手が増えてきた。
私の住んでいるマンションには、アフリカのどこかの国から来て働いている男性がいて、
玄関先で会えば「元気?」「仕事どう?」と近況を報告し合うほどの仲良しになった。
「外国人、増えたなあ」
そう思う一方で、テレビをつけると「外国人との共生」をめぐる社会課題が取り上げられている。
失踪した技能実習生、マナーを守らない観光客、地域のトラブル……。
_こうした外国人との共生をめぐる問題は本当に“外国人のせい”なのだろうか?_
その報道を見るたびに、私はなんとも言えないモヤモヤを感じる。
だって、私の周りにいる外国人たちは、みんな誠実に生きている。
地域に馴染もうと努力している。礼儀正しく、真面目に働いている。
彼らが「外国人問題」としてひとくくりにされることが、
どれほど不本意で、孤独で、悲しいものだろうかと、思わずにはいられない。
海外に暮らす日本人と日本に暮らす外国人
一方で、私の従兄弟達はアメリカに定住して家族を持ち、友人はイギリスやオーストラリアに移住して、それぞれに人生を築いている。
誰も彼らのことを「問題」とは呼ばない。
むしろ異文化の中で努力して、子育てして、仕事して、地域に溶け込んでいる。
それを誇らしいと感じる人も多いだろう。
では、日本に暮らす外国人たちは?
彼らもまた、自国を離れ、ことばや習慣の違うこの国で、必死に生きている。
何も問題を起こさず、社会に貢献し、税金を納め、支えてくれている人たちがたくさんいる。
「外国人との共生」という言葉の意味を考える
モヤモヤするのは、「外国人問題」という言葉のせいかもしれない。
それは、ひとり一人の人生を無視した、あまりに粗雑なラベリングだ。
確かに、制度的な課題や、文化摩擦、支援の不備など、問題と呼ばれる事象はある。
でも、それは「人」の問題ではなく、「仕組み」や「無理解」の問題ではないか。
国籍の違いではなく、“外国人を受け入れるって、どういうことか”を、
わたしたち一人ひとりが考える時期に来ているのだと思う。
共生とは「受け入れる」ことではなく「共に生きる」こと
私はいま、この「共生」という言葉について、よく考える。
共に生きる、とは何か。
それは、「外国人を受け入れる」という上から目線ではなく、
同じ地域に住む者同士として、お互いの違いを理解し合い、
助け合い、距離を縮めていくことなのではないか。
たとえば:
- ✅ 近所で見かけた外国人親子に「こんにちは」と声をかける
- ✅ ゴミ出しのルールを優しく教える
- ✅ 子どもが外国籍の友達と関わることを歓迎する
- ✅ 企業が言語支援や文化理解の場をつくる
そんな小さな行動が、「孤立」ではなく「関係」を生む種になる。
「日本って、優しかったよ」と言ってもらえる国に
私は、外国人が日本に来ることが"悪いこと"とは思っていない。
むしろ、日本という国を知り、日本語を学び、
ここで働いた人たちが、やがて母国に戻ってこう言ってくれることを願っている。
「日本って、優しかったよ」
それは、日本文化を守ることでもあり、
世界への発信を担ってもらうことでもあると思う。
読者のあなたへ──一緒に考えてみませんか?
このブログを読んでくださっている方に、問いかけたい。
「外国人問題って、本当に“外国人のせい”なんだろうか?」
「私たちは、“共に生きる”という視点を持てているだろうか?」
完璧な答えなんて、まだありません。
けれど、この“もやもや”を一人ひとりが手放さず、
考え続けることこそが、共生社会へのはじめの一歩なのだと思います。
私も、まだ考え続けています。
あなたのまわりには、どんな“共生のきっかけ”がありますか?
ぜひコメントやメッセージで、あなたの気づきも教えてください。
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