
歴史教育と社会の記憶|差別や偏見がなくならない理由と近代史教育の空白
体験から考えたこと
かつてマルタ島でホームステイをしていたときのことです。ある日、ホストマザーから「日本は中国を侵略したよね。その歴史を日本人はみんな認識しているの?」と問いかけられました。
私は「教科書には載っているけれど、高校に入るまで近代史をほとんど学ばないし、小学生では習わない」と答えました。
すると、その場にいた小学生の娘さんが自分の教科書を持ってきて、マルタ国の歴史を語り始めたのです。その瞬間、私は日本と海外の歴史教育への意識の違いに驚きを覚えました。
差別や偏見がなぜなくならないのか。
その理由のひとつは、近代史の教育が正しく行われていないことにあります。これは個人的な体験を通じて強く実感したことです。
日本の教育と社会の影響──差別や偏見がなくならない背景
教科書に見られる傾向
日本では、空襲や原爆など「被害の歴史」を学ぶ機会は多い一方で、近代における日本の行動を「加害の側面」から学ぶ機会は限られています。もちろん教科書には記述がありますが、扱いは控えめで、深く考える時間を持たないまま進んでしまうことも少なくありません。そこには政治や社会の影響があるとも言われています。
具体的な出来事(南京事件・慰安婦・沖縄戦など)
南京事件や慰安婦問題、沖縄戦における住民の犠牲などは、国際的にも注目される出来事です。こうした歴史を学ぶことは日本社会を理解するうえで欠かせませんが、教育現場では十分に扱われない傾向があります。
海外の例に学ぶ
ドイツの加害教育
ナチス期の歴史を繰り返し教育し、記念館や現地学習を通じて「二度と同じことをしない」という学びを徹底しています。
アメリカの多様な教育
奴隷制度や公民権運動が教育に組み込まれていますが、地域によって扱いに差があります。
韓国の事例
植民地時代の被害について詳しく学びますが、自国が加害者となった歴史には触れにくい面もあります。
こうした比較から、日本の教育の特徴は「被害の記憶に重点を置き、加害の歴史を深く学ぶ機会が少ない」という点にあるように思います。
戦争を伝える場について
アメリカには戦争博物館や記念碑があり、加害・被害の両面を伝える工夫が見られます。
日本でも広島や長崎の平和記念資料館のように「被害」を伝える施設は整っていますが、「加害をどう伝えるか」という点ではまだ十分とは言えません。
靖国神社の遊就館や昭和館などの施設もありますが、そこでの焦点は「国民の犠牲」や「国の歩み」が中心です。こうした違いが、国ごとの歴史認識の差を生んでいるのかもしれません。
広島平和記念資料館
アウシュビッツ記念館
なぜ学びの空白が問題なのか
歴史を十分に学ばないことは、次のような影響を及ぼします。
- 誤解が生まれやすい:背景を知らないと、支援策や制度を「特別扱い」と短絡的に捉えてしまう。
- 問題を個人のせいにしてしまう:構造的な歴史の流れを学ばないと、差別や偏見を「一部の人の態度」として片付けがちになる。
- 断片的な情報に振り回される:報道やSNSの一面的な情報に影響されやすくなる。
私自身も、こうした「学びの空白」があるために、社会で誤解や摩擦が生まれている場面を見聞きしてきました。
教育を未来につなげるために

ここで大事なのは「罪悪感」ではなく「未来への学び」です。被害と加害の両方を学ぶことは、同じ過ちを繰り返さないための力になります。
●学びの機会を増やす
授業や資料館、公開講座を通じて触れる場を広げる。
●多角的な視点を持つ
複数の資料や証言を比較し、考える力を育てる。
●家庭や地域で話す
学校だけでなく、日常の中で歴史を語り合う習慣をつくる。
教育や人材育成は、研修やキャリア支援の場にも通じるテーマです。歴史を学ぶ力は、未来をつくる人材を育てる基盤だと思います。
この『多角的な視点を持つ力』こそ、私たち有限会社オールバーグが提供する研修プログラムや人材育成支援において最も大切にしている視点です。歴史を学ぶことで培われる『背景理解力』や『構造把握力』は、企業におけるダイバーシティ推進や、未来を担うリーダーの育成にも不可欠だと考えます。
結論:ともに考えるために
差別や偏見がなぜなくならないのか。その大きな理由のひとつは、近代史の教育が正しく行われていないことにあります。教育は未来の社会を形づくる長期的な投資です。
私は「教育と人材育成こそが国の基盤」であると信じています。だからこそ、歴史をどう伝えるかは非常に大切な課題だと思います。
読者のみなさんも、身近な場所から「学びの空白」を埋める一歩を考えてみませんか。
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